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| [住所] | 愛媛県南宇和群愛南町柏339-1 |
| [TEL] | 0895-85-0900 |
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トップページ > 院長スタッフ紹介

昭和39年、東京オリンピックの年に私は生まれました。
私の父は農協に勤めるサラリーマンで、母は小学校の教諭をしておりました。
当時、育児休業は無く、私は生まれて7週目で子守の方にあずけられたそうです。
こらえ性がなく火がついたように泣く赤ん坊で、“子守キラー”として悪名を轟かせていたそうで、子守をしてくださる方の中には寝込んでしまわれた方もおられたそうです。申し訳ありません。
私が生まれて1年後には妹が生まれたのですが、生後1週間で突然亡くなり、両親は妹の分も私をかわいがってくれたようです。
給料の1ヶ月分ほどもする足踏み式のクルマを買ってくれました。そのときだけはとってもやさしくしてくれたようです。
それからさらに3年くらいして、もう1人妹が生まれ、こちらは今でも元気です。顔は私と同じです。

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保育園のころ、周りの子どもたちはとても活発で私から見ると
みんな運動神経が飛びぬけたスーパーマンばかりだったように思いました。
年長のときの運動会で園児による地区対抗リレーがあったのですが、当然私は補欠でした。
ところが選手の子が何かの理由で出られなくなって私が出場することになりました。
しかし、一夫くんが出るからこのチームはビリになるといわれて私は泣いて帰ったそうです。
めったに遊んでくれない父だったのですが、そのときは家の前のまだ舗装もしていない道で腕の振り方などを特訓してくれました。
子ども心に何でこんなしんどいことをしなければならないのだろうと思った記憶がありますが、
いざ本番ではいつもより少し速く走れてビリを免れ友達にも喜んでもらえたようです。
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小学校の頃も内向的な子どもでした。
当時の農協マンは休みがほとんどなく、父に遊んでもらった記憶はやはりありません。
ただ、日曜日の休日出勤についていって店番の手伝いをした(邪魔をした?)くらいです。
盆踊りのときに太鼓のやぐらの上で父と消防団の仲間が、
楽しそうにビールを飲んでいたのをみて自分もあそこに上がってみたいなーと思っていました。
低学年のときの毎日のお小遣いは10円で、それで駄菓子を買ったり、くじを引いたりして遊んでいました。
小学校2年生のとき友達が持っていた学研のトランシーバーが欲しいと父にねだったところ、
「よそはよそ、うちはうち。どうしても欲しければ、小遣いをためて買いなさい。」とのことで、
3300円するトランシーバーのために3ヶ月お菓子を我慢したことがあります。
結局1000円たまったところで、そのトランシーバーを買ってもらいました。
それを契機に小遣いは月給制で500円!にアップしてもらえました。
当時、私の地区ではおもちゃ屋さんなどは無く、年に一回のお観音様の出店のときしか、おもちゃは買えませんでした。
友達が持ってる楽しそうなおもちゃを見つけると、画用紙でそれをまねていろんなものを作りました。
ただ、母の里が雑貨やをしていたのですが、祖父がくれるプラモデルを組み立てるのは最高の楽しみでした。
母はお金に関してとても几帳面で、毎晩家計簿をつけ10円でも合わないと1時間くらい悩むことができる人でした。
小学4年生のころ、めったに無いおもちゃが近所の駄菓子屋さんに置かれていました。
母にねだったところいつものようにことわられ、ついに母の財布から1000円くすねて買いに行ったのですが、
母から連絡が行っていておもちゃは売ってもらえないし、お店の方からの通報で、私の容疑を固めた父から厳しく諭され、
車庫の鉄骨の中に隠してあった1000円札は見事に回収されたのでした。
このことで悪事は必ずばれる、まじめにこつこつやるのがよいということを叩き込まれた気がします。
小学校5年生のある日曜日、大好きなチョコフレークを食べていたら、左下の奥歯に激痛が走りました。
そうです、大きな虫歯の穴が開いていたのです。そしてそれが永久歯であることも当時の私にはわかりませんでした。
母が知り合いの歯医者さんにお願いをして何か痛みを鎮めるものをつめていただきました。
何回かのしんどい治療の後、もうなくなるかもしれないと思っていた私の歯は元の形によみがえらせて頂きました。
そして何より素晴らしいことは、それから34年たった今でもその歯はまったく再治療せずに使えているのです。
もうその先生は亡くなられましたが、本当に感謝しています。
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いい加減だった私の人生に褐を入れて下さったのが中学一年生の時の担任の先生です。
入学式の次の日、日記を忘れていった私は正直に「忘れました。」と言ったのですが、
「初日から児島はたるんどる!」と言われて一発ほっぺたを張られたのでした。
また、そのころの私は肥満で、腕立て伏せも、懸垂も1回もできないという有様でした。
中学の部活動は運動部と文化部の両方とも全員参加で、男子の運動部は剣道かバレーボールとのこと、
殴られるのはいやだったのでバレーボールに入ったのですが、
こちらの顧問も同じ先生でレシーブで腕は痛いしサーブをミスったら鉄製のハンドルでごつんと叩かれるし、
ひ弱な私にとっては地獄のような!?日々でした。
その先生は熱血先生で、夜中まで仕事をしても朝4時には起きて趣味の釣りをしてから出勤されていたそうです。
そして私たちが中学2年生に上がってすぐ、その先生は急性心不全で亡くなられました。
しかし、私の体は3年生になるころには見違えるような普通の体型になっていたのです。
先生は母に3年間で私をバッチリ引き締まった体にすると約束してくれていたのだそうです。
あんなにつらかった中学生活も3年生の冬には郡の駅伝に出していただき1区区間賞、
総合優勝をとれたりして夢のように充実したものになりました。
勉強のほうでも数学の先生が私を数学博士に任命してくれて、みんなの前で簡単な問題の解説をさせてもらったりしました。
文化部は統計部に所属しポスターで県入選することもできました。
今でもデータに基づいて何かをするのは、趣味のようになっています。
中学3年生のときがこれまでの人生の中では最も輝いていた時期だったように思います。
根気よく指導をしてくださった先生方に対する感謝の気持ちは年を経るごとに大きくなっています。
私も大人になったら、学校の先生になりたいとなんとなく思うようになっていました。
ところが高校でまた怠け癖が出たのです。
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高校にはバスで1時間ほどかかる、この地域では進学校といわれる高校に通いました。
「勉強のため、部活はやらないほうが良いぞ。」と父に言ってもらったのは、運動嫌いな自分としてはまったく好都合でした。
1年生の1学期まではまじめに勉強もしていたし、夏休みも頑張っていましたが、
なぜか集中力がだんだん続かなくなり、
勉強が終わった後は自分で引き抜いた髪の毛で机の下が真っ黒になっていたことがよくありました。
そして2学期になったある日、友達に決定的なひとことを浴びせられたのです。
「児島、円形脱毛症やないか?」
そのとき私は思いました。自分の体を傷つけてまでしてなぜ勉強をしなければならないんだ。
健康こそ一番大切なはずだ!と。それ以来私は無理に勉強をせずマイペースに楽しい日々を送ったのでした。
体と頭はつながっています。体を動かさずに頭だけを動かそうと思っても自分はうまく行きませんでした。
大変でも運動もしたほうが勉強もよくできるのではないかと今は信じています。
そして、大学受験の日は刻一刻と近づいてきました。
「私立大学に行かせるお金は無いから国立大学に行きなさい。」というのが両親の口癖で、
わたしは、国立大学の工学部に入学して建築学を学びたいなと思うようになっていました。
ところが父が突然言ったのです。「医学部か歯学部に行かんか?」
私は、気が弱く血を見るのも苦手で、なぜ本人の気持ちを無視してそんなことを言うのか全く訳が判りませんでした。
半年くらい毎日父との言い争いの日々が続きました。
意見は全く折り合わず、二言目には
「40歳になったら今のわしの気持ちがわかる。今の気持ちを手帳に書いとけ。」と言われました。
結局、父のある一言で私は歯学部を受験することにしました。
「歯医者になったら自家用の飛行機が買えるらしい。」
戦闘機のパイロットになろうと思って、防衛大学を受けたくらいの私にとって、
このフレーズは歯学部を受ける動機づけになったのでした。
情けない話ですが、最初はそんな目的からスタートしたのです。
広島での予備校時代は私にとって最も自由な時間がある時期でした。
受験勉強をしてもパチンコをしても自転車でツーリングに行ってもプラモデルを作っても、
お金がかからないことなら、何でもできる時間がありましたが、
それは自由とは感じられない牢屋に入っているような日々でした。
今では、自由とは、時間とかお金とかの問題ではなく心の有りようそのものなのだと感じています。
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そして、3回目の春、私は運良く徳島大学歯学部に入学することができました。
いざ入学してみると、クラスメイトたちは私から見ると天才のようにかしこい方ばかりでした。
頑張って勉強もしましたが残念ながら留年をしてしまいました。
特に人体解剖はつらくてもう歯学部をやめようか、と本気で考えていました。
そんな時、父が倒れたのです。
主治医の先生には「後2年位かもしれない。」と告げられました。(父は今でも透析の星とよばれて元気です。)
当時私は23歳、もうすべてが行き詰っている状態でした。
そのとき私を励ましてくれたのは両親と、高校を卒業してから5年間付き合っていた家内でした。
歯科医に再挑戦すると心に決め、先行きに自信は無いけれど彼女と一緒にがんばりたいという気持ちを打ち明けに、
家内の両親のところに行ったのです。
すると、予想に反して義父はそんな私と家内の結婚を許してくれたのです。
そして、私の24歳の誕生日に私たちは結婚式をあげさせてもらいました。
それからは、勉強とバイトの日々でした。スーパーでレジ打ちや野菜の配達をさせてもらったこともあります。
また夜は家庭教師と塾の教師を週8回していました。
結婚して2年で長男が生まれました。
まだ学生でしたし、働いてくれていた家内を休ませるために、
深夜に夜鳴きをする子どもを抱っこして寝かしつけてはまた勉強したりしていました。
その頃、落ちこぼれだった私に同級生が言ってくれた一言は、心のどこかでずっと私を支えてくれているような気がします。
「児島君みたいな八方美人が歯医者には向いとるかもしれんね。」
・・・褒め言葉ではないのかもしれませんが。
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ついに28歳で歯学部を卒業し宇和島市で、そして松山市で修行をさせていただきました。
この間学ばせていただいたことは、かけがえの無い財産です。
院長先生、奥様、先輩の先生方、後輩の先生方、スタッフの方々、みんな素晴らしい方ばかりでした。
プライベートでも28歳で長女、30歳で二女と家族にも恵まれました。
たった一人で親戚もいない故郷を離れた土地で、3人の子どもを育ててくれた家内には、いまさらながらに感謝しています。
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33歳ついに地元の内海村(現愛南町内海地域)で開業させていただくことができました。
内海村の当時の人口は2500人ほど、15km四方に歯科医院も、コンビニエンスストアもない田舎です。
けれども素晴らしい自然と、おいしい魚、なにより明るく意欲的な方々がたくさんおられます。
ほんの2年で10kg体重が増えました。
開業してまもなく、近所の先輩が私を勧誘に来られました。
「消防団に入ってもらえんやろうか?」
その時、私の脳裏を駆け巡ったのはあの盆踊りのやぐらでした。
了解の返事をした私にその先輩はほんの2分で自分の団服とヘルメットを持ってきてくれ、無事引継ぎは終わったのでした。
私は、ずっと落ちこぼれで、社会的にもフライングスタートでやってきました。
高校や大学のときに運動をしたり、友達と飲みに行ったりということはほとんどありませんでした。
歯の治療はともかく、社会人としては10年分くらい未熟だったと思います。
毎日の診療の中で、患者さんと触れ合う一言一言はいつも反省と勉強の連続でした。
仕事が終わって7時過ぎに家に帰るとご飯を食べるかどうかでぶっ倒れて、12時間くらい眠っていたこともたびたびありました。
実は人と話をするのが大の苦手だったのです。
いえ、話をしなくても、たとえばたくさん人がいるところはスーパーに行くのが一生懸命で、
デパートなどには入ることさえできなかったのです。
そんな私でしたが、たくさんの患者さん方にかわいがっていただき、少しずつ人生の負債を返して来られたように思います。
開業当初から、患者さんにスタッフのことをよくほめていただきます。本当に私は恵まれているなといつも感謝しています。
最初に衝撃を受けたスタッフは開院当初からずっと頑張ってくれている藤原さんです。
面接に来てくれたとき、本当にきらきらと輝くまなざしで
「私は本当に歯の仕事が大好きなんです!」と、熱く語られてしまいました。
こちらが採用させていただいたのやら、採用していただいたのやら、わからない気分でした。
開院当初から患者さんに喜んでいただくのはもちろん、藤原さんが喜んでくれるような治療めざしていたので、
頑張って来られたように思います。
そんなスタッフたちのおかげもあり私も少しずつ変わることができたようです。
30台後半の私の夢は、40歳までに言葉どおり“不惑”になることと、ゴルフのスコアで100を切ることでした。
ゴルフについてはすぐあきらめてやめてしまいました。そんな余裕は無かったのです。
2002年、38歳のときだったでしょうか、
私たちの内海消防団第2分団に小型ポンプ操法の大会出場の順番が20年ぶりに回ってきました。
実はその24年前の順番のときに、私の父は指揮者として出場し、
絶対優勝との前評判をもらいながら、本番では予想外の出来事が起きて優勝をのがしたのでした。
その日の父のがっかりした様子は今でも覚えています。しかも、今回の優勝候補も父が出たときに優勝した分団だったのです。
これは燃えないわけには行きません。
1人の選手のドタキャンでピンチヒッターになった私は、夕方6時30分に診療を終えると、すぐグラウンドに飛んで行き、
7時までに防火水槽に水をため、9時までみっちり練習、それから11時過ぎまで反省会兼飲み会をして、
副分団長として皿洗いをした後深夜0時に帰って眠るという当時の私としては、超ハードなスケジュールを2~3ヶ月続けたのでした。
残念ながら今回もうちの分団は2位におわりました。
しかし、大会が終わったとき、私は7時30分でへばって倒れてしまうような体ではなくなっていたのです。
私が、家にも帰らずポンプ操法に熱中していた頃、めがねをかけた長女は小学校で稲のバケツ栽培をがんばっていました。
秋に大きなポリバケツいっぱいの収穫を味わった彼女は、次の目標として当然のように実際の田んぼで稲を育てたいと言ったのです。
その頃うちには遊ばせていた田んぼがあって、父に一坪でもいいから娘に田んぼを作らせてくれるよう頼みました。
しかし、10年以上畑として使っていた土地で、水が抜けるから無理だといって最初は取り合ってくれませんでした。
地域のいろんな方のおかげで、何とか父を説得し、翌2003年の2月から田んぼ作りがスタートしました。
準備はほとんど父がしてくれ、またまた地域のたくさんの方々の助けを借りて、無事田植えが終わったのでした。
私は朝4時におきて、本を読んだり仕事をしたりしてから、
明るくなるとまず川に入り田んぼへ水を導くパイプの取入れ口の掃除をし、
それから田んぼに出て草取りをしました。今となっては笑い話ですが、5畝の稲が枯れて娘をがっかりさせたくなかったのです。
草取りをしていて田んぼの中で腰を伸ばしたときに水田の上を渡ってくる風の気持ちよさといったら、最高でした。
それから7時になると風呂に入って朝食をとり、8時前に出勤しました。そして8月には無事収穫をすることができたのでした。
同じ2003年4月、歯科のほうでも新たな動きが始まりました。
開業して6年間手をつけてこなかったインプラント治療を始める決心をしたのです。
開業当初、うちではよその歯科医院で立てたインプラントがぐらぐらになっていたのをはずすことだけでした。
そのような不確実なインプラントを狭い田舎で患者さんに立てて、具合が悪くなって悪い評判が立つことを恐れていました。
ところが、開業して月日がたつにつれ、そのようなインプラントを見ることは少なくなり、
状態のよいインプラントを見ることが目に見えて増えてきたのです。
勉強に行ってびっくりしました。インプラントの5年生着率は95%に達していたのです。
私の実感では50~60%くらいの印象を持っていました。
神経をとってかぶせを入れた歯の5年残存率も同じ95%なのです。
歯がなくなった人に対する治療が、歯を残してする治療と同じ成績なのなら絶対したほうが得です。
すぐに準備をしてインプラント治療を開始しました。患者さんのニーズもあったのです。
これも同じく2003年の4月、九州は天草で開業されている生田先生のセミナーに出席しました。
フェリーで九州に渡り、佐伯から会場の宮崎市までクルマで往復しました。
ホテルで復習する時間も含めると24時間で18時間くらい勉強する超ハードなセミナーで、
しかも一瞬も気を抜くことができないほどの内容の濃さでした。
私たち開業医は大学で習った理想的な治療と、採算を取れる開業医としての治療の狭間でいつも格闘している気がします。
生田先生のセミナーはその迷いを吹き飛ばしてくれる洗練された治療法だったのです。
この年、大きく設備投資もしましたが、迷いが無くなりすっきりした気分で診療ができるようになった私たちの雰囲気を、
患者さんもきっと感じられたと思います。
前年の小型ポンプ操法に続いて、2003年はいろいろ大きく変わっていくきっかけになった年でした。
そして、運命の2004年、つまり40歳になる年をむかえたのでした。
私の誕生日は3月13日です。その日は、30キロほど離れた宇和島市で年に一回、
愛媛県の南3分の1の歯科医師が集まる総会が催された土曜日の夕方でした。
懇親会も終わり、バスの時間まで1時間ほどあったので、私は書店で欲しかった本を探し始めました。
その本は見当たらないようでしたが、なにか、楽しそうに光り輝いている1冊の本が目にとまったのです。
その本にはこう書いてありました。
「気がつくと机がぐちゃぐちゃになっているあなたへ」リズ・ダベンポート著
アメリカ人の女性が書いた本のようでした。
代わりに買ったこの本をバスの中で読み始めると止まらなくなり、そして残りを自宅で一気に読み上げてしまいました。
その本には物や情報をもれなく管理し、ストレス無く毎日を過ごすために、
そして夢をかなえるために実行するための方法が書かれていました。
優柔不断だった私は、実際机の上にうず高く書類や本を積み上げていました。
1ヶ月もたたないうちに私の机の上はすっきり片付きました。棚の中も同じです。
探し物は瞬時に見つかるようになり、忘れ物もなくなりました。
小学校以来、私の心の中にかかっていた霧のようなものがすっきり晴れたような気がしました。
今ならわかります。
生田セミナーに参加していなかったら読書なんかしなかっただろうし、ポンプ操法に出場していなかったら、
生田セミナーに参加する決断もできなかったでしょう。
そして、やぐらの上に憧れなかったら、その消防団にも入っていないのです。
それからの4年間は夢のような日々でした。
インプラントはその後、患者さんの希望でより難しい症例に挑戦することとなり、
しかしすべての症例の99%がよい経過をたどっています。
定期的にチェックに来られる患者さんでは100%です。
気が弱い私のオペは少し時間はかかりますが、
タッチが優しいらしく患者さんはリラックスされてついには眠ってしまう方もおられます。
私の立てたインプラントをいつまでも使っていただくことが、私の新しい夢です。
また、この3年間は毎月1~2回のペースで、日本中を飛び回りいろんな勉強をさせてもらいました。
このセミナー旅行は私の大切な趣味の一つです。
日本中の先生方が研究されたすばらしい治療法のうち、私にあった治療法を次々と組み合わせて、
私だけの治療法で診療をさせてもらっています。
スタッフの方々も自発的にいろんなところへ勉強に行ってくれています。
18歳で歯科医になると決心した日から22年間、私は本当の自分では無い人生を歩いてきた気がしていました。
しかし、その22年間に、あるいはもっと幼いときに、私に起こってきたことはすべて、今の自分のためにあるのだと納得しています。
20数年も前の父の悔しさが私を駆り立て、それがきっかけとなっていろいろなことがうまくいき始めたのです。
気の弱ささえ用心深さにつながっています。
今、自分に起こっているすべてのことは、過去に自分が選択して実行したことの結果です。
今、自分がやろうとしていることが将来の自分を創ります。
早く決断した人は、その結果から早く学んで、さらに次へと進んでいきます。
今、私に関わるすべての決断は、私自身がしているという実感があります。
私の毎日に後悔は無く(反省はあります)、夢に向かって少しずつ近づいています。
一日一日は輝いています。
今の私の夢は、もう自家用の飛行機ではありません。
インプラント等に役立つCTが欲しいという夢はあります。
また、今は平均12時間仕事をしていますが、もう少し年をとったら、
5時くらいで家に帰って家内と夕日を眺めながら、ビールを飲みたいという夢もあります。
そのためにも今やるべきこと、やりたいことがたくさんあります。
長い文章を最後まで読んでいただきありがとうございます。
今度はぜひ直接、あなたとお話しがしたいです。
その日を楽しみにしています。
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